私とテニス
テニスを始めてもう34年余になる。上達は遅いが継続は長い。継続は力?!
引っ越し前の能登川の地で始めた。その切っ掛けは人生の交通事故、被衝突。
ラケットの握り方も解らないから、先ずテニス教室に入った。1回90分の実技
指導×8回コース、基本を習い役に立った。教室が終わるや、良いタイミングで
町のテニス教室が始まった、2ヶ月ほどだった。教室が終了するも指導した人の
主導もあったのであろう継続、そのメンバーが集まりテニスクラブが出来た。
人の出入り、移動もあったが長年在籍、利害関係のない者同志の交わりであり楽
しんだ。練習日は土・日・祭日の午後。上手なメンバーは隣町のテニスクラブに
移りもしたため、クラブは二極化した。
次に我が6~7歳頃?!の古い記憶の話。当時、紡績会社の社宅に住んでいた。
当時の紡績会社は絶好調の基幹産業、社内のスポーツ活動がとても盛んだった。
余談を一つ。綿花はアフリカのスーダンから輸入、その圧縮した綿花の中から緑
色の蝉が出てきた。お袋が持ち帰ったもので珍しく大切に保管していた。
戻って当時、女子6人制バレーボールは紡績会社が強かった。6人制が主流とな
っていたが、その中で何度か能登川工場は9人制で全国制覇、町内を凱旋パレー
ドした。野球に女子バレーボールは全国社内の工場対抗の試合が行われていた。
水泳、テニスは工場内大会。当時の水泳大会の表彰式の写真が残っている。
その表彰式典で児童特権である我が輩がウロウロしている写真が残っているが、
誰が撮ったのだろう?!微かな記憶だが、親父が社内テニス大会でプレーしてい
る記憶も残っている。軟式ダブルス、その記憶ポーズは片手を後頭部に当ててい
る姿、ミスしたポーズだ。親父は晩年も暫くテニスをやっていた。
我がテニスの現況であるが、引っ越し後は、ひょんな切っ掛けで野洲のテニスク
ラブに転がり込んだ。それから15年になるが多くのメンバーの出入りもあるが
、毎週水曜日の午後、練習している。今もメンバーの出入り、ビジター参加もあ
って新陳代謝が盛んだ。今の能登川TCとの大きな違いである。
現在、この水曜日と土・日・祭日の週1~3日、テニスに興じている。誘われて
1年目となる湖南市の北山台TCにも加入、そのメンバーの最高齢者は78歳。
最高齢者から木曜日も他所で練習しているから来ないかと誘われた。水曜日の翌
日の木曜日、二の足を踏んだ。が、勧誘1年後となった先週土曜日練習で1度参
加しますと伝え、昨日初参加した。湖南市のオムニコート2面。集まったメンバ
ーは11名余、内、顔見知り3名を前に、団塊世代です、XXさんの紹介で参加
、どうぞよろしくと挨拶。遅れて女性1人が参加。メンバーは皆んなリタイヤ組
、団塊世代が多いのだろう。最年長者は稀な85歳でお上手、足腰が元気であれ
ばテニスに興ずることができるが、そこまで我が命が持つか?!難しいだろう。
誘った人は2番目の今年79歳となった。60代も2~3人いるが同じような年
頃の同じような力量の試合は面白い。最初からダブルスの試合である。
テニスも面白いが人との交流も楽しいもの。忘年会?!の話題の話もしていた。
この女性の1人、何処かで見たようなプレースタイル、恐らく野洲河川敷のコー
トで会っているのだろう。能登川TCと異なり、野洲TCを通じた人の交流が盛
んで、紹介、勧誘が起きる。その拠点はNPOの野洲スポーツクラブ。
やろうと思えば、野洲川コートでは全曜日?!の午前、午後にいろんなGがテニ
スをしており、多くがWelcomeで毎日テニスが可能である、レベルがあるが。
これでテニス練習日の選択肢も増えた。土・日・祭日の北山台TC、水曜日と若
者が多い土曜日の野洲TC、新たな木曜日の同グループ。疲れや雨天によって練
習日を多く選択できることになる。1週間の可能練習日、歳と共に増えているが
、増えるものだとこのクラブの最高齢管理者?!らしき人は言った。身体を動か
し、冬も軽く汗をかき、美味しく食事、熟睡、精神身体にとって健康的だ。
そして我が人口多き団塊世代、遊び、テニス仲間も多いという利点もある。
東京の姪からLINEが来た、明日10日、埼玉のテニス大会、女子シングル初
中級の試合に出ると。我、衰えて来年は手に負えない相手となっているかも?!
*試合結果:
無鉄砲、むこうみずな行動、コートチェンジ、ルールは無知、7名による
トーナメント。全員中級者、結果は最下位。次回は初級クラスの大会へ。