部分自叙伝

自叙伝を書こうかと言ったことがある、妙子さんに。我が人生が波乱だから。
新聞には「話の肖像画」として21回の自叙伝を連載していた。甲高い声のジャ
パネットたかたの高田明氏。同歳であり時代背景が同じだから読んでみた。
長崎県平戸市出身で家業はカメラ店。フィルム販売、現像、から写真撮影に広げ
る。観光旅行客相手に撮影を始め、事業がドンドン成長していく成功物語である。

これに対し、小生は一番苦しいときを顧みる部分自叙伝。しかし、先のG・Gの
女性は苦労とは思わなかったと言っていたが、時間とともに悪い記憶は薄れて小
生も苦労とは余り思わない。考えようで人生あるがままに・・・の考えが支配的
になった、どうすることもできないから。増える自由時間を楽しんでやれ、時間
の浪費は避けようと。一番苦労したのは娘。その苦しい思い出であるが、我が人
生の最悪期は何時だ?! と回顧、整理し以下に記した。
結婚した1985年に娘が生まれ、生まれる前から家庭に小さな波が起きていた。
産婦人科の医師からの苦言も戴いた。「この方、子供産むの無理ですよ!」
生まれて1年半後に一方的な反乱、動乱が起きた。夜、義理の父親が我が娘を拉
致、その拉致から3週間ほどして裁判所から出頭要請文が届く。夫婦関係調整調
停事件とある。激情型の父・娘。義理の父はこちらに相談することなく拉致の翌
日に一方的に裁判所に直行。出頭要請に応じた。日々それほど争い、喧嘩が多い
訳でも無かったが、突然の天候急変の如く表情が変わる。仕事で不在中、安価な
飾り品を壊している。写真に写る我が顔にも爪のひっかき傷がある。
ストレスを発散していたようだ。そして反乱から3ヶ月後の1987年暑い夏の
8月末に結審した。結審から約1ヶ月後も相手の訴えが続く。子の氏変更許可申
立書が申し立て人=子供の名で届いた。調停と同じく代理人弁護士3名の連名。
まだ幼少であり急ぐ必要はないから反対したが、申立は許可され、娘の氏は我が
氏から外れた。これにて同件は落着した。
自らカッとなったら分からん、覚えていないという性格。調停中、電話すると後
悔の弁が出る。調停中、市内で一度二人で話し合った。が、もうこれはとても無
理だと判断。全て小生が悪く、反省はない。寄りを戻しても再び反乱は確実に起
きるだろうと判断した。我が家庭は動揺、母親は病院で洗面器いっぱいのトコロ
テン状の吐血で入院、病院の階段を背負い、上がり病室に運ぶ。胃潰瘍である。
我が下腹には重き鉛が入った、心労である。だが家庭騒乱中のこの間も仕事は忙
しくて休めない。 会社の従業員相談室にも出向き、お世話になる。 しかし、
このヒステリー発作、父親が娘に暴力を振るったことによるトラウマから起きて
いたことはまだ誰も知らない。それは騒動から時間が経った後年である。
2010年には甥の心の病の関係もあって聴講生として大学で心理学を学んだ。
調べ、そして心的外傷と疑い始めた。我が両親も前妻のヒステリーがトラウマに
よるものとは知らずに亡くなっている。小さい頃から会社から帰るなり、義父は
弟と二人を殴り、テーブルをひっくり返して怒ったという、信じられなかったが。
川へ、列車への死を考えたという。しかし、本当に死ぬ気があれば、あれこれと
考えないものだ、と何度か聞いた。苦労しているのだと同情に目がいった。
短い一緒だったから本人の性格はよく分からない。恐らく悪い人間ではなかろう。
父親は外では、会社では我慢し、家庭に帰り、鬱憤を発散していたのだろう。
今では家庭内暴力、子供への虐待が顕在化し社会問題となっているが、昔から日
常的に起きていたのだ。だから拉致後の娘の家庭環境を懸念した、尋常な家庭で
はないから。実家へ連れて戻る。が、また父親から暴力、虐待を受けるのではな
かろうかと・・・。結婚するまでにその父親に会ったのは短時間の一度である。
さて、この調停期間中も会社の仕事は続く。通常夏休みは2週間。この休暇中は
いつも仕事が忙しくなる。工場の生産設備の新設、更新、改修などの大規模工事
が始まる。この時、小生は自動走行運搬車の能力倍増工事を行っていた。運搬車
を制作した尼崎市のメーカーを訪れ、技術情報を伝授。ハードの改造は他に任せ
て、ソフトウェアの改修に専念。この社独自のオリジナルシーケンスを採用して
いる。回路を変更し、パソコンとリンクし、自動走行制御しなければならない。
休暇前からその準備作業の仕事に入っている。その合間には離婚調停が入り、何
度か出廷しなければならない。何とか目的とする工事を無事終え、休暇明けから
はしばらく調整運転の期間に入る。上手く稼働しなければ生産現場は混乱するが
順調に稼働した。それから暫くして疲れた我が身体に異変が起きた。右首筋に小
さな赤い発疹が現れた。社内診療所に行くとヘルペスでは無いかと言う。
調べると大の大人が床を転げ回るほどの痛みが出るとあった。神経根にヘルペス
ウィルスが侵入して痛むもの。疲れから抵抗力が落ち、ウィルスが暴れ出したも
の。薬で痛みを抑えて痛みを感じたことはなかったが、顔は大きく腫れ、同僚は
休むように勧めたが仕事の関係で休めなかった。傷口からリンパ液が滲出、お袋
が手当をする。そして2年後の1989年10月、’90年7月の2度、新工場建
設で台湾に出張。不慣れな海外の仕事で忙しくなり家庭の悪夢は薄れていく。
だが、42歳の91年3月、車の大事故を起こした。確か職場のゴルフ大会に向
かう日だったと記憶。家から1kmほど走った所に通称五個荘名神と呼ばれる1
km近い直線道路がある。前を走る車はノロノロの初心者?!運転、対向車線の
遠く先にはバイクが来ているが追い越した。我が車は並木をへし折り田んぼに突
っ込んだ。フロントガラスは割れ、顔は血だらけ。相手は10mほど飛ばされ、
一瞬死んだ?!路上にうずくまっている。余りの接近の速さに驚く。後続車に頼
み、救急車を呼んでもらった。ノロノロ走っていた男は現場でオドオドしている。
警察が来て事故の現場検証に入る。バイクのミラーがフロントガラスを突き破り
我が顔面は7針の縫合。相手は足首を複雑骨折?!事故時、そのバイクは猛スピ
ードのよう、直前、我が眼前で左に動いた、左の自車線に戻ろうとしていたが、
避けようととっさに追い越し車線側にハンドルを切る。と同時に今度はバイクは
右に動いたから衝突。バイクは一瞬S字走行した。互いに接近しているが予想以
上に速かった。車は廃車となり免停。相手宅を訪れ謝罪、入院先の病院への見舞
いは毎週バスで通った。この事故時、会社の職場の先輩が駆け付けてくれた。
相手バイクは修理工場へ、この時判明。5ヶ月前にもこのバイクは車と事故を起
こしていたことが分かった。ヘルメットには「滋賀柿の種」とあった。暴走族で
ある。毎週見舞いに行ったが、病室に仲間がいるときも、家族がいる時も一切、
小生を責めなかった、嫌みの一言も言わなかった。母親も丁重に応対してくれた。
父親がおらず母子家庭のように見えた。センターラインをオーバーした大きな車
に責任があるとなるが、相手にも非があると思ったもの。猛スピードで走り、衝
突前の減速を怠り、相手を幻惑する走行行動を取る。彼は衝突の忌避行動を取ら
なかったから。若者も小生も互いに事故現場から1kmの近くに住む隣町の住人。
この1987年5月~91年5月の4年間が我が人生の一次最悪期である。
 それから5年後の1996年3月夜、親父が心筋梗塞で倒れ入院、薬害性肝炎
を併発、半年後には脳梗塞になり半身不随、お袋が介護。1998年9月には母
親が大腸ガンの手術で成人病センターに入院。退院後の病状良くなく、地元病院
へ再入院、手術、両親が同じ病院で枕を並べている。11月末2時過ぎに親父が
亡くなり、病院へ駆け付けると入院中のお袋が既に枕元にいた。許可を貰いお袋
は一時我が家に戻り、葬儀に出席、見送った。親父が亡くなってから1年半後の
2000年5月末にお袋が亡くなった。親父入院の時は病院ベッド下で寝たこと
もあった。お袋入院時は駅から病院に立ち寄り我が家に帰る。お袋の時は妹も見
舞い、手伝う。亡くなった2000年に妙子さんと知り合う、紹介で。
妙子さんも1ヶ月違いの4月に親父が亡くなっている。
1996年3月~2000年5月の4年間が人生の二次最悪期。
ただ、二次最悪期は、親を持つ誰もが経験することである。翻って、一次最悪期
はお地蔵様が我が人生を持て余したイタズラ、お戯れと思っている。

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